《ロメオとジュリエット》サシャ・ヴァルツ振付版 その2

前回のUPで、気合いを入れすぎたか(笑)、
曲の解説が第1部で終わってしまったので、続きをば。

第1部が、作品全体の解説の役割を果たしているので、
本編は第2部からです。
先のエントリーにも書きましたが、ベルリオーズの「ロメジュリ」は、
シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の「最も目立つ各場面の”情景”を描く」という点にありますので、
この第2部から本編が始まると言っても、
シェイクスピアの戯曲や、プロコのバレエ版のように、
逐一、登場人物間の一つ一つのやりとりを描いて行くわけではありません。

というわけで、ベルリオーズの曲を聞いていても、
ティボルトやマキューシオの主題のようなものが明確にあるというのでもないし、
(↑こうやって音楽にダイレクトに登場人物を登場させてしまうと、交響詩になってしまう)
舞踏会への忍び込みすら、まるで劇のセットがぱっと変わるか、
映画のように、次のカットでいきなり舞踏会!という感じ。
なので、音楽だけ聴いていると、本当にそれぞれの情景が張り絵のように「ぺたっ」と連続している感じがします。
こうすることで、第2部の場合は、
ロメオの心理状態に焦点を当てた状態で、舞踏会の場面にスムーズに移行できると。

まあ、もともとバレエの音楽は、物語を語るためというよりも情景を描くことに主眼があるので、
ベルリオーズのこういう音楽は、その意味で振付が入り込む余地がある作品と言えるでしょう。
舞台音楽は、この「余地」をいかに作るか、に作曲家の腕が試される分野で、
逆に、既成の曲に振付を付ける場合は、いかに「余地」を持った曲を探してくるか、というのが、
振付家、ないしドラマトゥルクの腕の見せ所と言えるかと思います。
デコりすぎのネイルアートが視覚的にうるさいのと同様に、
すでに情報がぎっちり詰め込まれた音楽に他の要素を加えると、とたんに「うるさい」舞台になってしまう。

なので、ヴァルツの振付では、ベルリオーズの音楽の「張り絵」を、いわば「3Dの絵」にするために、
振付で舞踏会への参加の過程が、やはり少し視覚的に説明されていると思います。
例えば、舞踏会のシーンへ移る前に、ロメオ役が同じ黒い衣装を着た2人の他のダンサーと一緒に踊ることによって、
シェイクスピア版でロメオ、マキューシオ、ベンヴォーリオが、
キャピュレット家の舞踏会に忍び込もうぜ!と相談しているシーンを、
観客に想起させることが出来ますね。

まあ、ベルリオーズの曲が「情景の連鎖」であることは、
ここに書くまでもなく、ベルリオーズが各部分に付けたタイトルを見れば、
おのずと情景描写であることは分かるのですけれども(笑)


第2部
・ロメオひとり
・哀しみ
・遠くから聞こえてくる音楽会と舞踏会
・キャピュレット家の饗宴
(アンダンテ・マリンコニコ・エ・ソステヌート〜アレグロ〜ラルゲット・エスプレッシーヴォ〜アレグロ)

第2部の音楽の面白さは、まず「ロメオひとり」の部分のふらふら上下行する半音階。
出だしから、1stヴァイオリンが奏するのですが、
例えば、

「ドファーーミ/ミ♭ーレミ ミ/レーーララ♭ソ/レ♭ード
「シソーーソ♯/ラーシ♭シ♮ド/レーレ♭ドーシ♮ーミ/ミーーー」

と、半音でずりずり上がったり下がったり、という繰り返しの多いこと。
ダイナミクスも、ppp → ポコ・クレッシェンドでf → dimしてpp、と変化が激しいので、
これだけでも、ベルリオーズが速度表示で指示している、ロミオのメランコリックな側面が分かります。
メランコリックというか、ドリーマーなのかな。ロミオはマキューシオと違って、恋を信じている人で、
だからマキューシオにからかわれるのですものね。

ラルゲット・エスプレッシーヴォの個所に入ると、低弦がピッツィカート、打楽器群にバスク・タンバリンが加わって、ロミオの耳に舞踏会の音楽がちらほら届いている様子。粋だなあ。
で、アレグロから低弦の「ドレミファファ♯/ソーファファミミレ/ドー♪」が聞こえてくると、
もうロメオはキャピュレット家の宴会を見聞きできる場所まで来ています。
ここらへんは、振付でもきっちり対応していた印象。
アレグロの出だしで、ロメオと2人の黒服さんが、白い板の後ろで仮面を付けていたと思います。

舞踏会の旋律(「ドーシ♮シ♭ララソソッファー♪ラソファファミミードミミソソミファー♪」)は、
下行する音階。
同じ下行でも、「ロメオひとり」が半音階のずるずるぐずぐずした旋律なのに対し、
こちらはF-durの音階をほぼそのまま使ってあって、
テンポが速くなっているという事もありますけれど、ノリの良い旋律です。
これが弦から木管に移った後の部分、弦のピッツィカートが低弦から上に移動して行くところとか、
ベルリオーズ、ホントすごいなー(笑)
宴の最後は、シンバルじゃんじゃん鳴りまくりで盛り上がってます(笑)。


閑話休題。
・シェイクスピア版で、ロメオがキャピュレット家の舞踏会に忍び込むのは、
 その時恋していたキャピュレットの姪、ロザラインの姿を一目見るため。ロメオ結構心変わり早い(笑)?
・ていうかそもそもロザラインに恋している時点で、敵方を好きになっている(笑)
・舞踏会の開催は日曜の夜。ちなみに幕開きの時間設定は日曜朝9時前。


第3部「愛の場面」
・静かに晴れた夜
・静かで人影のないキャピュレット家の庭
宴から帰るキャピュレット家の若者たちが、舞踏会の音楽を思い思いに口ずさみながら通り過ぎる。
(アレグレット)
(アダージョ〜アニマート〜アレグロ・アジタート〜アダージョ→PDD)


第3部の頭は、合唱が入り、
直前の舞踏会の場面で出てきた旋律の断片を歌っています。
歌詞でいうと、「bal divin, quel festin que de folles paroles」のあたり。
先の、舞踏会の旋律(「ドーシ♮シ♭ララソソッファー♪ラソファファミミードミミソソミファー♪」)に続く、
「ドーレドレドレ/ドーシ♭シ♭ソソミ」の旋律ラインが、
始まって2分くらいすると、繰り返されて出てきます。
テンポはゆっくりしているので、舞踏会の出席者が、
会の余韻を楽しみながら帰っている様子。
ヴァルツの振り付けでも、上手から下手へ、踊り疲れてねじまき人形のようになったバルの客たちが
舞台を横切っていきます。

合唱の部分が終わってアダージョに入ると、
いよいよ、シェイクスピア版のバルコニーの場面。
ヴァイオリン1が「シラ♪ソ♯ファ♯♪/ド♯ミ♪レ♯シ♯/ド♯」と、
いわゆる「ためいき音型」と言われる形の旋律をppで奏します。
これは楽譜で見ると一目瞭然なんだけどなー。
ジュリエットに恋してしまったロメオのため息でしょうかね。

このため息に引き続いて、ヴァルツ版バルコニーPDDのメイン旋律、
「ミーーーーーレミファファーソファミーレーミーーー♪」が、
4番ホルン&チェロで奏されます。PDDのはじまりはじまり。

ここらへんの旋律は、基本的にぐんぐんオクターヴ上行して、
頂点に達したらふわりふわりと下行するパターン。
テンポを頻繁に変えることで、恋した最初のころの心の上ずりみたいなドキドキ感が出てます。
幸せなんだけど、うわぁ、もうどうしよう!というあの感じ。


第4部 「愛の妖精の女王マブ」
・スケルツォ
(プレスティシモ〜アレグレット〜テンポ・プリモ・ウン・ポーコ・ピウ・プレッソ〜プレスト、アンコーラ・ピウ・アニマート)


「マブ」というのは、シェイクスピア版の舞踏会の直前、
マキューシオとロメオの会話の中で出て来ます。
「昨日、不思議な夢を見た」と語るロメオに、
マキューシオが「ああ、おまえ、マブの女王と一緒に寝たな」と返すところ。
マキューシオは、このマブの女王を「妖精たちが夢を生むのを助ける産婆役」と言っています。

先にも少しふれたように、ロミオが夢見がちな人であることは
ロメジュリにおいてとても重要で、
ロメオが夢を見られる人であるからこそ、彼はジュリエットとの恋を最後まで信じられたし、
夢を笑うマキューシオが、ロメオのシャドウ的存在になることで、
ロメオのドリーミーな性格がさらにひきたつ、と。
実際、ジュリエットの訃報を知る直前、ロメオは「夢のお告げ」と言って、
ジュリエットが、死んでいるロメオのところへやってきてキスをすると、
ロメオが目覚める――という夢を見た、と喜んでいて、
夢の内容が非常に重要であるだけに、彼と「夢」というのは、切っても切れない間柄なのですね。

ヴァルツ版では、この第4部でロレンス神父が登場し、
教会での秘密の結婚、キャピュレット家での結婚をめぐる事件が起こっています。
秘密の結婚なので、かなり照明を落とした中、
2重になった台の上の方で、ロレンス神父がロメオとジュリエットを両腕で持ちあげ、
ぐるっと回るのが印象的。
音楽的には、アレグレットになって弦のフラジオレットの上で(フラジオ使うところがさすが!)
フルートとイングリッシュホルンが、「ラーレ♪ラーレ♪ラーレーファード♯ーレーラーミーシーラ♪」と吹くところからが、ヴァルツ版の「秘密の結婚」ですね。

そして、第4部の音楽が終わると、
いったん音楽が完全に止まって、ロメオがセットを駆け上がるソロの場面。
このソロ、音楽がないことからも明らかですが、
ヴァルツ版オリジナルの挿入ですね。
一方、次がジュリエットの葬送の場面なので、
シェイクスピア版で存在している、ティボルトとマキューシオの決闘&殺害、
ロメオのマントヴァ逃亡前の、最後の逢引はカットされていることが分かります。


閑話休題。
・ジュリエットが飲んだ薬の効き目は42時間だが、研究者によっては、24時間の誤記ではないか、とする人もいる。(←作品内で言及されている時間の流れに合わないらしい)


第5部 「ジュリエットの葬送」
キャピュレット家の合唱「花を撒け、みまかれる処女のために!」
(アンダンテ・ノン・トロッポ・レント)


シェイクスピア版では、水曜日の朝にジュリエットの遺体が発見され、
皆がその死(と思っている)を悲しむ場面で第4幕が終わり、
第5幕は、マントヴァにいるロミオの「夢語り」で始まるので、
葬送の場面それ自体は、戯曲版では描かれないのですが、
ベルリオーズ版は、さすが「情景連鎖」なだけあって、
葬送の情景をばっちり取り入れています。
同じことはヌレエフ―プロコ版にも言えて、ジュリエットの葬送行進の場面があったはず。

音楽的には、フーガとミ音に固定した合唱→葬送の合唱、となっていて、
教会でのミサを思わせるような音楽作りが印象的。
ヴァルツ版では、弦がミ音連打するあたりでゆっくり床のお墓の部分が開いて、
ジュリエットが埋葬されてますね。
ついでながら、この「同音連打」というのは、
音楽的にも緊張感を生む場面で良く使われていて、
ああ、いよいよ最後の悲劇の場面が近づいているな、というのが分かります。


第6部 「キャピュレット家の墓地におけるロメオ」
・祈り
・ジュリエットの目覚め
・忘我の喜び
・絶望
・いまはの苦しみと愛しあう二人の死
(アレグロ・アジタート・エ・ディスペラート〜アレグロ・ヴィヴァーチェ・エ・アパッシオナート・アッサイ〜リステッソ・テンポ、ウン・ポーコ・アニマート)


墓地の場面は、シェイクスピア版だとロメオとパリスが決闘してますが、
先の第4部で特にパリスが出てくるわけでもなく(要は「ジュリエットが薬を飲んで仮死状態になる」という事だけが重要なので)、したがってこの第6部でも、ロメオとパリスの決闘があっさりカットされています。
情景描写なので、これも問題ナシ。

すごいのは、始まってすぐの1分すぎあたり、
オイレンブルク版のスコアを見ると、フェルマータ付きの全休符が、
ほとんど1ページ埋め尽くしているところがあって(p.254)、
これはある意味壮観(笑)
リステッソ・テンポからあとの個所も、フェルマータ付きの全休符で
音楽がばつっ!ばつっ!と切られていたり、
最後の最後でオーボエ・ソロがppppという最弱音でふら〜っと下行音型を吹いたり、
このあたり、音楽の臨場感当社比30%UPって感じです。


第7部 「終曲」
人々は墓地に駆けつける:モンタギュー家の人々の合唱「何だと! ロメオが戻った! ロメオが!」 
(アレグロ〜モルト・ピウ・レント)
ロレンス神父のレチタティーフとアリア:ロレンス神父と合唱「わたしが不思議をといて進ぜよう」
(アレグロ・ノン・トロッポ〜アレグロ〜ウン・ポーコ・メノ・アレグロ〜アンダンティーノ)
ロレンス神父と合唱「かわいそうな御子たちを悼んでわたしは泣く」
(ラルゲット・ソステヌート〜アレグロ・ノン・トロッポ〜アンダンテ・マエストーソ)
キャピュレット家とモンタギュー家の口論:合唱「だが私たちの血が彼らの剣を赤く染めている」
(アレグロ)
ロレンス神父の祈り:ロレンス神父、合唱「黙りなさい!」
(アレグロ〜アレグロ・モデラート、ウナ・ミズーラ・エグアーレ・ア・デュエ・ミズーレ・デル・テンポ・レチェデンテ)
和解の誓い:ロレンス神父、合唱「では誓いなさい。神聖な御印にかけて」
(アンダンテ・ウン・ポーコ・マエストーソ)


終曲の第7部は、バス・ソロと合唱の長大なパートです。
もう主人公の2人が死んでしまっているので、
ヌレエフ―プロコ版も、シェイクスピア版も、基本的には「死んだーーー!!!」という慟哭の中で終わりますが、
ベルリオーズが「やるな(ニヤリ)」と思うのは、
この最後の場面で、ロレンス神父による両家の仲介の場面を入れたことですね。

というのも、恋人二人の死で幕引きになると、
当然、お話のスポットライトが二人の恋愛にフォーカスするわけですが、
ここで両家の仲裁の場面を、かなり長く取り入れたこと、
さらに、それを言葉で演じる場面にしたことで、
このお話を、ロメオとジュリエットという単一の人物の物語にするのではなく、
むしろ、ロメオとジュリエットという「イデア」に仕上げたというか、
徹底した情景描写に徹するために、
最後の最後で作品の大事なテーマの一つ、社会が人を振りまわす悲劇というのを、
強く打ち出しています。

モンタギュー家もキャピュレット家の争いは、単なる勢力争い以上に、
お互いに、自分たちこそがヴェローナの街の名家である、という名誉を持っているものですから、
大公が仲裁に入ろうと、決して引くことが出来ない争いなのですね。
だからこそ、剣を抜いて命を張って闘う訳ですが、
ロメオとジュリエットの方も、名誉をかけて恋しているわけで、
ジュリエットは、ロメオと結婚した以上、パリスとの結婚なんてありえないからこそ断固拒否するし、
ロメオも、ジュリエットの死の誤報を受けて、追放処分の身ながらヴェローナに帰るのは、
彼女の夫としての名誉があるためといえます。
この「名誉×名誉」みたいなぶつかり構造があるからこそ、
作品が一層ドラマチックになる。
この辺りのことは、河合祥一郎先生の御本に詳しく書いてありますので、
ヌレエフ版を見るにしても、ヴァルツ版を見るにしても、お薦めの一冊です。


という訳で、結論。
やっぱりベルリオーズはすごかった(笑)


《ロメオとジュリエット》2012年5月7日公演、オペラ・バスティーユ

パリ・オペラ座で「ロメジュリ」といえば、
真っ先に思い付くのが、ルドルフ・ヌレエフ振付のバレエ。
プロコフィエフの重厚な音楽に色彩豊かなお衣装、綺麗なデコールが見ものの演目で、
オペラ座では、昨シーズンの4月公演で上演されています。

一方、オペラ座で「ロメジュリ」の組み合わせには、もうひとパターンありまして、
それが、先日5月7日に初日を迎えた、サシャ・ヴァルツ振付による作品。
こちらは、ベルリオーズの劇的交響曲《ロメオとジュリエット》を音楽として用いた作品で、
どちらも、土台はシェイクスピアの戯曲とはいえ、その内容はヌレエフ版と大いに異なります。

音楽学屋として注目したいのは、
プロコの《ロメジュリ》が始めからバレエ上演を目的に作曲されているのに対し、
ベルリオーズの《ロメジュリ》は、その副題からも明らかなように、
あくまでも「交響曲」のひとつとして、ベルリオーズが作品を位置づけている点。
作品自体も非常に複雑なのに、そこにさらに踊りを組み合わせるとどうなるのか――
というわけで、とても気になったので、5月7日の初日に行って参りました。
今回の布陣は以下の通り。

Sasha Waltz Chorégraphie
Pia Maier-Schriever, Thomas Schenk et Sasha Waltz Décors
Bernd Skodzig Costumes
David Finn Lumières
Vello Pähn Direction musicale
Patrick Marie Aubert Chef du Choeur

Stéphanie D’Oustrac Mezzo-soprano
Yann Beuron Ténor
Nicolas Cavallier Basse

Aurélie Dupont Juliette
Hervé Moreau Roméo
Nicolas Paul Père Laurence

Amandine Albisson
Caromine Bance
Valentine Colasante
Sarah-Kora Dayanova
Christelle Granier
Caroline Robert
Mallory Gaudion
Alexis Renaud
Daniel Stokes
Simon Valastro

Charlotte Ranson
Pauline Verdusen
Julie Martel
Sébastien Bertaud
Adrien Bodet
Yvon Demol
Alexendre Gasse
Axel Ibot
Jérémy-Loup Quer


Orchestre et Choeur de l’Opéra national de Paris


さて、ベルリオーズの作品は7部から構成されており、
配役からも分かるように、合唱、独唱まで入る、非常に大掛かりな作品です。
(今回は独唱に、愛しのステファニーが入っていて大興奮)
プロコのバレエ曲が、シェイクスピアの筋に忠実に各場面を描いていくのに対し、
ベルリオーズの場合は、まず第1部のイントロダクションで、
作品のおおまかな筋を最後まで説明します。

第1部 イントロダクション 
 ・争い、騒動、領主の仲裁(オケ)
 ・プロローグ、コントラルトと小合唱「眠っていた古い憎しみが」
 ・ストローフ:コントラルト「忘れようがない、はじめての熱狂よ」
 ・レシタティフとスケルツェット:
 ・テノールと小合唱「まもなくロメオは物思いに沈んで」
 ・テノールと小合唱「マブよ、夢のお遣い」
 ・小合唱「やがて死が統べ括り」

 
作品の結末がどうなるか、というのは、
実はシェイクスピアの戯曲版でも、最初の「プロローグ」でコーラスによって明らかにされていて、
プロローグの第2、第3ストローフ(この場合はスタンザですかね?)を見ると、

Or dans le sein fatal de ces deux ennemis
Deux amants prennent vie sous la mauvaise étoile ;
Leur malheureux écroulement très pitoyable
Enterre en leur tombeau la haine des parents.

Les terribles moments de leur amour mortel
Et l'obstination des rages familiales
Que rien sinon la mort des deux enfants n'apaisera,
Pendant deux heures nous le jouerons sur ce théâtre ;

と、最後にロメオとジュリエットが死んでしまう事が、ちゃんと述べられています。
(手元にフランス語版の台本しかなかったので、フラ語で失礼します・・・。)

つまりは、喜志哲雄先生が著書『シェイクスピアのたくらみ』でご指摘されていることなのですが、
シェイクスピアの『ロメジュリ』は、二人が最後どうなっちゃうの?恋は実るの?と
ドキドキしながら見守る劇なのではなく、
この二人、最後に死んでしまうけど、どうやって危機を切り抜けようとするのー!?という、
そっちのほうにドキドキする劇なんですね〜。
その点で、プロコの《ロメジュリ》は「ロミオとジュリエット」という物語に焦点を当てた作品だけれども、
ベルリオーズの《ロメジュリ》は、

シェイクスピアのロメジュリ、皆知ってるよね!
この作品で描かれている、「社会に翻弄される若い愛」を象徴的に描くよ!

という視点からの作品と言えると思います。
特に、ベルリオーズの場合は、この第1部のストローフの部分に

Cette poësie, elle même dont Shakspeare lui seul eut le secret suprême
この詩情、シェイクスピアだけがその至高の秘密を得たそれ自体

という歌詞が(オイレンブルク版スコア37ページ)あるので、
より「前提としてのシェイクスピア版ロメジュリ」が意識されているというか。
なので、ベルリオーズの《ロメジュリ》が「交響曲」として
作曲者本人にジャンル分けされているのは、
もちろん当時のオペラのスタイルで書かれていないということもありますが、
何よりも、
「シェイクスピアの戯曲の中で、最も目立つ各場面の”情景”を描く」
という点で、象徴的であるし、交響曲的な作品であると言えると思います。

交響詩なんかもそうですけれど、やはり器楽曲というのは
たとえ登場人物などがいたにしても(リヒャルトの《英雄の生涯》とかね)、
個々の瞬間の、人物が抱く感情の機微や、些細な心理などは、
それ自体を音のみで描くのは大変難しく、
ある程度、前提として、観客の側に共通認識が無いといけないんですよね。

まあそんなわけで、イントロダクションではお話の概要を説明しなければいけないので、
当然のことながら、音楽も、その後の本編で登場する様々な旋律の断片が出てきます。
代表的なのが、「プロローグ」のアンダンテ・コン・モート・エ・アパッシオナート・アッサイからの
「se découvre à Juliette et de son coeur les feux éclatent à leur tour」の旋律。

イントロダクションの開始も、ヴィオラから始まるフーガになっていて、
トロンボーンの「♪ファーソラー、レーミファー、ソッミーシミラレ♪」の旋律までは、
主に弦がひっぱってうわーっと盛り上がる。
この出だしのわさわさした感、
最初にダンサーさん達が舞台に走り出て来て、
ヴェローナの街での両家の喧嘩を示すような動きをするのですが、
そことぴったり合っている気がします。

領主が登場して仲裁しても(「レチのように」の個所)、
ヴァイオリンとかファゴットが、争いのことをぶつくさ混ぜっかえしているのも可笑しいですねえ(笑)

(関係ないけれど、フーガの和名は「遁走曲」っていうのが、
なんだか見るたびに可笑しい・笑)



・・・と、ここまでで既に結構な長さになってしまったので、
第2部以降は次回のエントリーで書きまーす。
しかし複雑な作品だな(笑)

《ドン・ジョヴァンニ》2012年4月16日公演、オペラ・バスティーユ

ハネケ演出の《ドン・ジョヴァンニ》、
2回目の観劇は、ONP現オペラ部音楽監督のフィリップ・ジョルダンのアシスタントを務める、
マリユス・スティゲルストが指揮者として登場しました。
公演自体はあと2回を残すのみですが、
昨日を含め、この最後の3回を振るのはスティゲルスト。
なので、昨日の《ドン・ジョ》は彼にとってのプレミエ日でした。
他には、ドン・オッターヴィオ役がベルナルド・リヒターからセミール・ピルギュにバトンタッチ。
というわけで、昨日の布陣は以下の通りです。

Philippe Jordan (15, 18, 21, 23, 25 mars, 3, 8, 12, 14 avr.) Direction musicale
Marius Stieghorst (16, 19, 21 avr.) Direction musicale
Michael Haneke Mise en scène
Christoph Kanter Décors
Annette Beaufaÿs Costumes
André Diot Lumières
Alessandro Di Stefano Chef de choeur

Peter Mattei Don Giovanni
Paata Burchuladze Il Commendatore
Patricia Petibon Donna Anna
Bernard Richter (15, 18, 21, 23, 25 mars, 3 avr.) Don Ottavio
Saimir Pirgu (8, 12, 14, 16, 19, 21 avr.) Don Ottavio
Véronique Gens Donna Elvira
David Bizic Leporello
Nahuel Di Pierro Masetto
Gaëlle Arquez Zerlina

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真ん中、燕尾服の方がスティゲルスト。お疲れさまでした!

さて、このドンジョですが、ハネケの演出に関しては賛否両論のようで、
昨日も上演の真っ最中に席を立つ人もあれば、
アンコールでの拍手が早々に揃い手拍子になったりして、
こういう演出の難しさを示しているように思いました。
確かに、1幕の最後(宴会のシーン)でドン・ジョヴァンニが誰かれ構わず女の子に襲い掛かり、
服を脱がせて全裸にしてしまったり、ツェルリーナを下着姿にしてしまったり、
観ている方にとっては、嫌悪感を覚える場面があるので、
受け入れがたいのも確か。

また、前回も書きましたが、
このオペラは各場面の場面設定の変化が割と多いにもかかわらず、
会社のエレベーターホールという一杯飾りのセットで全てを済ませてしまうので、
セット上の工夫はあるものの、「それはちょっと厳しいんじゃないか」と思う点もあります。
例をあげると、出だしで殺された騎士長の遺体は扉で仕切られたオフィスの奥に運ばれていきますが、
そこに何回も、ドンナ・アンナやドン・オッターヴィオが出入りしていたり、
そもそも、最初にドンナ・アンナとドン・ジョヴァンニがいちゃいちゃしているのも、
灯りが付いた部屋の中なので、
その状況でドンナ・アンナがドン・ジョヴァンニの顔を判別できない訳が無い、とか。
舞台だけを見ていると、舞台の作りやお衣装が割とリアルっぽいだけに、
そのちょっとした違和感がどうしても気になってしまいます。

とはいえ、歌い手さんの演技などは大いに評価したい点の一つ。
特にタイトルロールのドン・ジョヴァンニを演じたマッテイ、
ドンナ・エルヴィーラ役のヴェロニク、
マゼット役のディ・ピエッロは前回から引き続きの好演でしたし、
むしろ、回数を経てさらに勢いに乗っている印象でした。
また、ピルギュのドン・オッターヴィオも非常に張りのあるカーンとしたテノールで、
前回のリヒターが割と大人っぽい印象のドン・オッターヴィオだったのに対し、
ピルギュのドン・オッターヴィオは、ドンナ・アンナの釈明の不思議な点にも
「あ〜、そりゃ気づいてないわこの人なら」と思える役作りでした(笑)。

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前列、左から騎士長のビュルチュラゼとドン・オッターヴィオのピルギュ

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ツェルリーナのガエルとマゼットのディ・ピエッロ。

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ヴェロニク(ドンナ・エルヴィーラ)


さて、この《ドン・ジョヴァンニ》、
モーツァルト自身も「ドラマ・ジョコーソ」と楽譜に書いていたように、
悲劇なのか喜劇なのかジャンル分けしにくい― そもそも、どのジャンルに入れるべきなのかという議論があり続けた作品ですが、
物語全体の悲劇性も喜劇性も、割合簡単に見つけられるとはいうものの、
それは単に、ドン・ジョヴァンニが最後に破滅への道を選ぶから、とか、
可笑しいエピソードがあるから、というだけで済ませて良いものかどうか、
前回のエントリーから、ちょっと考えていました。

そこで思い当たったのは、この作品、
全体としては悲劇の枠組みの中にある作品ですが、
喜劇的要素として、喜劇に欠かせないポイントをいくつか含んでいる、という点。

しばしば指摘されることですが、
「喜劇」において笑いを引き起こす事が出来るのはなぜか、というと、
登場人物(あるいはそれを演じる役者)と、観客との間に意識の距離があることだと言われます。
観客の側は、舞台で起こっていることを全て把握している一方、
人物たちの間では共有されていない情報やシチュエーションがあるために、
そのギャップによって、面白みというものが生まれる、と。
したがって、喜劇を作る際には、
この観客と舞台との距離というのを絶えず意識して、
その距離が、劇中のある特定の状況においてどのような効果を生むのかを、
作者の側が把握、計算している必要があり、
そのための様々なテクニックがあるわけですね。

で、《ドン・ジョ》の場合は、台本において、
喜劇としてはベタすぎるといっていいほどベタな(笑)テクニックが使われていまして、
ひとつめは「独白」、
ふたつめは、それこそシェイクスピアの喜劇では頻繁にお目にかかる
「衣装の取り換え」です。

独白というのは、リアルの世界ではまずあり得ないことで、
登場人物が舞台上のある状況に対して、自分の本音を明らかにするわけですが、
これは観客に情報を提供する目的で用いられいて、
例えば、ドン・ジョヴァンニがドンナ・エルヴィーラをなだめている時に、
レポレッロが自分の主人に対する気持ちをこっそり言うことで、
この従者が、その時の状況をどのように見ているのかが分かるわけですね。

オペラにおいてはアリア自体がすでに独白の役割も果たしているので、
独白があるからといって喜劇になるわけではないのですが、
それでも、レチの個所でちょっと独白が出てきて、
誰かがこっそり誰かを批判したりすると、
過剰反応大好きなフランスの客席は(笑)、大笑いしちゃったりしています。


衣装の取り換えは、これもリアルの世界でしたら、
衣装を取り換えたくらいで人を見間違えるなんてことは無いわけですが(笑)、
劇の御約束では、お衣装を変えることによって別人になりすますことが可能で、
シェイクスピアの喜劇では、お衣装を変えることで見かけの性別まで変わってしまうという、
なんとも「そりゃないだろ」的なことが本当に沢山起きていますよね。
モーツァルト作品の衣装の取り換えといえば、《フィガロ》の伯爵夫人とスザンナの衣装の取り換えや、
ケルビーノの女装が有名ですが、
モーツァルトに限らず、例えば、リヒャルト・シュトラウスの《ばらの騎士》でも、
オクタヴィアンが女装して小間使いのマリアンヌと偽る場面がありますね。
リヒャルトの場合は、そもそもフィガロを意識しているし、
その上、オクタヴィアンがズボン役なので、二重にこんがらがりますが(笑)


まあ、とはいうものの、
こうした喜劇の要素は《ドンジョ》における味付けのようなものなので、
やはり、全体としては悲劇― その点で、
「喜劇的悲劇」とモーツァルトが書いたのも、うなづける気がします。

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《カヴァレリア・ルスティカーナ》&《道化師》2012年4月10日ゲネプロ、オペラ・バスティーユ

チケットを取っていなかったCav&Pag公演、
ひょんなことから、ONPの方に公開ゲネプロの入場券を頂戴し、
見てくることが出来ました。
公演自体は4月13日にプレミエを迎えています。
今回の布陣はこちら。

Daniel Oren Direction musicale
Giancarlo Del Monaco Mise en scène
Johannes Leiacker Décors
Birgit Wentsch Costumes
Vinicio Cheli Lumières
Patrick Marie Aubert Chef du Choeur

Cav.:
Violeta Urmana Santuzza
Marcello Giordani Turiddu
Stefania Toczyska Lucia
Franck Ferrari Alfio
Nicole Piccolomini Lola

Pag.:
Brigitta Kele Nedda
Vladimir Galouzine Canio
Sergey Murzaev Tonio
Florian Laconi Beppe
Tassis Christoyannis Silvio

Orchestre et Choeur de l’Opéra national de Paris
Maîtrise des Hauts-de-Seine / Choeur d’Enfants de l’Opéra national de Paris

PRODUCTION DU TEATRO REAL, MADRID

作品の内容については、前回のエントリーで書きましたので、
今回は公演の内容について。
個人的に、デル=モナコはかなりオペラオペラした演出が好きなんじゃないかという印象があるのですが、
今回もやってくれたなあ、という感じです。

《カヴァレリア》も《道化師》も、
物語内の現実とお芝居という枠組みが提示されていて、
その入れ子になっている状態が面白いオペラだと思います。
今回の演出では、例えば《カヴァレリア》では、
開演前から本当の緞帳は上げ、真っ赤な紗幕で後ろのセットがうっすら透けて見えるようにしていたり、
幕開きのトゥリッドゥの「私はプロローグです」を、
客席からトゥリッドゥが登場する、というスタートにさせ、
客席と舞台、という区切りを出来るだけ薄めていました。

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また、《道化師》の場合は、
最初の序曲の間に、《カヴァレリア》の最後に殺されたトゥリッドゥが、
殺されたままのポーズでトラックに引かれて行くという(笑)
第2幕のコメディアの個所は、舞台の中にもう一つ舞台を作っていたので、
現実なんだかお芝居なんだか次第に分からなくなって混乱していく様を、
さらに私たちが客として見ている、という三重の状態になっていたので、
その混乱状態の中に完全に飛びこむことはできず、
客席の視点が残ってしまったことは残念でしたが。

それから、《カヴァレリア》の方に関して、
真っ白な岩山のようなセットに、真っ黒のお衣装、という対比は綺麗なのですが、
出演者全員のお衣装が黒いので、合唱になると、
ソロの部分があっても、誰がどこで歌っているんだか、
平土間からでも見わけが付かない(笑)
多分、映像にすれば効果が出る色遣いなのかなあと思うのですが。
強いて言うなら、サントゥッツァを歌ったヴィオレッタに関しては、
あの有無を言わさない存在感(色んな意味で)でどこにいるのか把握できる、というか。

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そのヴィオレッタですが、今回の演出ではほぼ舞台にでずっぱり。
というのも、舞台の中央に穴倉のような個所があって、
彼女は殆どそこにいて、舞台で起こることを見ているんですよね。
なので、視覚的にも作品におけるサントゥッツァの存在というのがかなり強調されていて、
作品におけるサントゥッツァの重要性は、
見た目に明らかだったと思います。
そうすると、トゥリッドゥが本当に単なる浮気おっさんみたいに見えてしまって、
ローラもなんか・・・尻軽女みたいな・・・(笑)
一応この二人、トゥリッドゥが戦争に行く前は恋人同士だったという設定があるんですけれどねえ(笑)

まあ、突っ込みどころを上げればきりがないのですが、
トゥリッドゥが「もしも俺が戻って来なかったら・・・サントゥッツァを頼む!」と言って
お母さんのルチアに「マンマーーーー!!!」と絶唱するところとか(笑)
(ならルチアも最初からトゥリッドゥに「このバカ息子!」くらい言えばいいと思うのだが)、
そういう個所をドラマチックに盛り上げてしまうのが、
デル=モナコ演出に関して、ちょっと感覚的に合わないなあと思い、
かつ、デル=モナコのイタリアンな血潮がほとばしる箇所かと思います(笑)

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《道化師》では、カニオ役のガルージヌ、ネッダ役のケーレがとても素晴らしい出来で、
特に、第2幕のお芝居になってからのシーン、
必死にコメディアを続けようとするネッダと、
怒りに我を忘れたかのように荒れまくるカニオの対比が浮き出れば浮き出るほど、
お話の緊迫感が増していたと思います。
1幕のネッダを、ケーレが「ちょっと浮気者で遊び好きな美女」という感じで演じていたので、
カニオとネッダの夫婦関係も、とても分かりやすい。

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しかしこの時代のイタリア・オペラって、
まあ当然と言えば当然なんですけれど、
不倫とか、横恋慕とか、叶わぬ恋とか、そういう色恋沙汰ばっかり
しかも、結構一方的な想いに苦しんだり、一方的な思いをぶつけたりして騒動が起きるのはなんでなんだろう(笑)
ちょっと雰囲気が違う20世紀フランス・オペラをやっている身からすると、
冷静になろうよー、と思う事もしばしばです(笑)

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Les jeudis de Bastille - 《カヴァレリア・ルスティカーナ》&《道化師》

先週、Les jeudis de Bastilleと同じ日に《メリー・ウィドウ》を観に行っていたので、
すっかり書くのが遅くなってしまったのですが、
先月の29日には、Les jeudis de Bastilleがありました。
コンフェランス形式のLes jeudisは、今年度はこれが最後。
あとはコンサートなどになってしまうようです。
うーん、《3つのオレンジへの恋》とかリヒャルトの《アラベッラ》とか、
他にもまだやることはあると思うんだけどなあ。

ともあれ、前回のお題は
13日から公演が始まるピエトロ・マスカーニの《カヴァレリア・ルスティカーナ Cavalleria Rusticana 》と、
ルッジェーロ・レオンカヴァッロの《道化師 I Pagliacci 》について。
コンフェランスの担当者は、ナント大学でイタリア・オペラとイタリアの市民社会についての研究を行っていらっしゃる、エマニュエル・ボスケ先生でした。
ボスケ先生は特に19世紀のイタリア・オペラがご専門なのだそうで、
昨シーズンのザンドナーイ《フランチェスカ・ダ・リミニ》のプログラムにも、
文章を寄せてらっしゃいました。
・・・今回の《カヴァレリア》も、デル=モナコ演出だからチケット取るの止めたんだよな・・・。

さて、ほぼ同時期に作曲された《カヴァレリア》と《道化師》、
ボスケ先生による注目すべき点は、3つあるとのことでした。
ひとつめは、両作品における宗教の重要性で、
《カヴァレリア》では復活祭の朝という最初の設定が、
《道化師》では、聖母被昇天祭日の午後に始まる物語という設定が、
ドラマの進行と、演出の助けになるという点。

ふたつめは、両作品の「ヴェリズモ・オペラの金字塔」という位置づけについて、
《カヴァレリア》は、原作との関係からより演劇に接近したアプローチであることと、
シンメトリーの構造がみられる一方、
《道化師》では、リヒャルトの《ナクソス島》のように、
劇の中に劇がある構造、なんだけれど次第に第2幕が劇なのか現実なのか分からなくなってくること。
この点において、「本当らしさ」の表現で言えば、
《道化師》の方がより洗練されている、とのこと。

最後に、「嫉妬」と「悲劇的な罰」。
《カヴァレリア》ではサントゥッツァがトゥリッドゥとローラの逢引をアルフィオに告げてしまう事によって、
《道化師》では、カニオもしくはパリアッチョが、ネッダとベッペ/コロンビーナとアルレッキーノの不倫に嫉妬することによって、最後の場面の流血に至ります。
《カヴァレリア》では、元の小説版でトゥリッドゥとアルフィオの決闘シーンが、
血の匂いがするほどにリアルに描写されているそうで(うえー涙)、
この決闘シーンは、オペラでは舞台裏で行われますが、
そのくらいの激しさ、リアルさというのも、ヴェリズモっぽいところ。
《道化師》の場合は、シナリオの枠組みとしてコンメーディア・デッラルテ、
すなわち風刺喜劇が用いられているにも関わらず、
劇中劇を見ている観客の目の前で刺殺事件が起こるという悲劇のコントラストが、
結末の悲劇性をさらに高めているそうです。

オペラもヴェリズモの時代になると、
ありきたりなハッピー・エンディングとか、王様やらお姫様やらの話では無くなってきて
(もちろんそういう話もまだ生きていた時代ですけれど)、
貴族たちが楽しみのために観るような、
パターン化したお話と音楽ではなくなってきちゃうんですよね。
ヴェルディの《リゴレット》もそうだし。
そうした事態においては、オペラを書く作曲家にとって、
作曲の技術ももちろんですが、
自作をどのような客層が、どんな場所で見るのかを踏まえたうえで
台本を選定する能力も求められるので、
なかなか大変だろうと思いますが(笑)、
だからこそ、100年以上たった今でも上演される作品として、
力を持っていると言えるのかもしれません。